ゆるるん自宅警備

大人になりたくない大人のブログです

ばあちゃんとの最後の思い出

ばあちゃんは軽い脳梗塞をやってしまった後「アルツハイマー認知症」と診断された。

一人で医師の診断を聞いた私はショックで言葉が出なかった。

脳梗塞をしたばあちゃんに治療薬は無く、毎日静かに進行は進んで行くと言われた。

孫が一人で診断の結果を聞くと言う状態にさすがのばあちゃんもおかしいと感じたんだろう。

ばあちゃんは私に詰め寄った。「なんて先生に言われたか知りたい」と・・・。

私は悩んだ。言うべきか、言わないべきか・・・。

最終的に言った。ばあちゃんは受け止めた。

「たくさん楽しい思い出を作ろう、アルツハイマーになっても忘れないようなとびっきりの思い出をたくさん作ろうね!」と言ったらばあちゃんは「年だからね・・・仕方ないよね・・・よろしくね」と言った。

 

病院の医師にもばあちゃんに病名を伝えた事を言い、私と医師、地域の人たちに見守らればあちゃんは生活をした。

ばあちゃんの息子や娘にも伝えたがみんな知らん顔をした。

こうなる事は分かっていた。いつもそうだ。

じいちゃんの時もばあちゃんの時も「めんどくさい」だけなのに「忙しいから」とか「時間がない」とか理由をつけていつも手を貸してくれない。

入院したって一度は顔を出すが5分もしないうちに「忙しいから」と言って帰ってしまう。

じいちゃんやばあちゃんの体を拭く事を一度もしなかった。

着替えを持っていく事もしなかった。きっと今回も何もしないのだろう・・・。

何もしないなら口も出さないで頂きたいものだが、文句はきっちり言う。

私は色々諦めた。ばあちゃんが笑って毎日過ごしてくれたらいいと気持ちを切り替えた。

 

しばらくはいつもと変わらないばあちゃんだったが、少しづつ症状は出て来た。

何故か花瓶に包丁が刺さっている・・・なんて日常茶飯事だった。

買い物もマヨネーズを毎日買ってきたりして日に日に出来なくなってきた。

怒りっぽくもなってきた。かと思ったら子供の様にはしゃいでいる日もあった。

それでもふっと我に戻った時のばあちゃんはいつものばあちゃんだった。

ばあちゃんは外出が好きだった。「車で出かける」って言うだけでばあちゃんはワクワクしているみたいでお化粧をしたりオシャレを楽しんでいた。

外出先は大型スーパーみたいな所やただのドライブでも楽しんでいてくれた。

でも途中で「何でここに居るの?もう疲れたよ」と言ったら帰る・・・そんな日だった。

帰りにおいしいウナギでも食べさせてあげたいと思い「ウナギ食べる?」と聞いたら喜んでくれたのでウナギ屋さんに行った。

「ばあちゃん!今日は特別だ!特上ウナギをご馳走するよ!」と言ったら「特上!?ほんとに?」と子供の様に喜んでくれた。

「特上ウナギ肝吸い付き」をばあちゃんは喜んで食べた。

もちろん食べているばあちゃんの写真撮影も忘れない。ニコニコ顔の写真はいいもんだ。

でもばあちゃんは「年だから特上一人前は食べきれない」と言ったので半分タッパーに入れてもらってお持ち帰りした。

お会計の時「レシートを頂戴」と何に使うんだろう?と思ったが欲しいと言ったので渡した。

残りのウナギとレシートを抱えてニコニコしているばあちゃんを助手席に乗せ家に向かった。

ばあちゃんは家に帰ってすぐに仏壇に向かい線香を付け「お父さん・・・孫に特上ウナギをご馳走してもらったんだよ・・・ほらこれお父さんの分だよ・・・高かったんだよ~」と言ってレシートと残り半分のウナギをお供えしていた。

ばあちゃんはじいちゃんにも食べさせてあげたかったみたいだ。

その時ばあちゃんに見られないように少しだけ泣いた。

ばあちゃんはじいちゃんが死んだ事は理解していたが、それでもばあちゃんは時々じいちゃんに会っていたみたいだ。

「お父さんが二階の部屋に居て棺の中に入れてあげた着物を着て立っていた」と言ったり、「お父さんが靴下がないって言ってたけど、棺に入れてあげなかったからかな?」とか言うのだ。

その都度じいちゃんの靴下を用意したり、じいちゃんが通っていたスポーツクラブの道具を揃えてあげたりしていた。

 

アルツハイマーになってからばあちゃんと箱根に旅行にも行った。

部屋に露天風呂が付いているタイプの部屋に泊まった。

美味しいごはんも出てばあちゃんは嬉しそうだった。

寄木細工のジュエリーケースも買った。

二日目に「富士山が見たい」と言うので、箱根から御殿場、山中湖とドライブしてほうとうを食べた。

ばあちゃんは富士山に手を合わせて祈っていた。何を祈ってのかはあえて聞かなかった。

でもきっと祈りが叶った時に教えてくれるだろう・・・と思ったから。

旅行中ばあちゃんは「夢みたいだ!」とはしゃいでいた。

時々「お父さんにも食べさせたかったな・・・」とか「お父さんにも見せたかったな・・・」と言っていた。

ばあちゃんの心の中にはいつもじいちゃんが居た。

きっとアルツハイマーが進行してもじいちゃんの事だけは忘れないだろう・・・。

 

でもばあちゃんはいつも穏やかではなかった。怒って手を付けられなくなる時が増えて来た。

記憶が混乱しているのか?パニックを起こして手あたり次第そこらじゅうの物を投げつけてきたりする時もあった。

ミカンを投げつけられた時はさすがに困った。

壁にたたきつけられたミカンは爽やかな香りを放ち、ミカンの汁がべったりと壁に染みを作りどんな洗剤を使っても落ちないのだ。

その時思ったことは「危険物でない限りキャッチしよう」だった。

ミカン事件の時以降出来るだけキャッチした。

中濃ソースが飛んできたり、せんべいが飛んできたり、新聞紙が宙を舞った時もあった。

鍋の蓋の時はキャッチしたが、茶わんが飛んできたときはさすがに逃げた。

色んなものが飛んできたおかげで私はキャッチするのが上手くなっていた。

多分ばあちゃん限定だろう・・・。

キャッチしながら「今日はコントロールの調子がいいんじゃない?」とか「ナイスボール!!」とか言うとばあちゃんも楽しくなってくるようでしばらくすると笑っていた。

笑うと怒りやパニックは消えていくみたいで「今何でキャッチボールしてたの?」ときょとんとして聞いてくる。

パニックを起こしていたなんて言えるわけもなく「私が運動不足だからだよ」と言うと「あんたは車にばっか乗っているから!外に行って走ってきな!」といつものばあちゃんに戻って説教される。

説教されていると「何で~?こんなはずじゃなかった・・・」と落ち込むがばあちゃんに言えるわけもなく、ただ黙ってばあちゃんの小言を聞くだけだ。

 

そんな毎日を繰り返している中である事件が発覚した。

ばあちゃんが40万もする帯を呉服店から購入していて請求書が届いたのだ。

昔ながらの呉服店は信頼関係でカードも使わず分割払いが出来るらしい。

ばあちゃんは勝手にあれこれ買っていたのだ。

出来上がってしまった物なので返品も出来ずに私の口座から40万が一気に消えた。

その後の買い物の代金も払って私の口座は随分寂しくなった。

「もし今後ばあちゃんが買い物に行っても何も売らないでくれ」とお願いしたが、呉服屋さんは「昔からの信頼関係でやりとりしていますから・・・そう言われましても・・・」と何とも言えない対応をするだけだった。

病院の医師に相談して診断書を作ってもらい、ちゃんと事情を説明した。

「これからもばあちゃんは買い物をするかもしれない、でも払いきれなくなると思うので持って帰ってきたらこっそりそちらに返品させて欲しい」と・・・。

それからもばあちゃんは呉服屋さんで買い物をして持って帰ってきた。

家に持って帰ると興味を無くすらしくその辺に置いてあるので、それをき気づかれないように内緒で呉服屋さんにまた持って行く。

 

ハッキリ言ってノイローゼになりそうだった。でもばあちゃんのせいじゃない、病気のせいなのだ。

そうしている間にばあちゃんが腹痛を訴えた。病院に連れて行ったら腸閉塞になっていた。

検査の結果胃の中はパンパンに食べ物が詰まっていた。

私が知らない間に食べていたみたいだ。

食べた事を忘れてまた食べてしまう・・・それを繰り返していたみたいだ。

私は自分を責めた。どうして気が付かなかったんだろう・・・と。

医師は私を責めなかった。

「一人で見るのは限界なのよ・・・。他の家族の力を借りないと・・・」と言われたけど協力してくれる人はいなかった。

ばあちゃんが入院して医師から連絡を受けた「家族」は一応病院に来た。病院に来た「家族」は私を責めた。

「どうして気づかなかったんだ!」とか「お母さんがかわいそう!」とか「食事の管理も出来ないのか!」と次々とご立派な言葉で責めた。私は何も言えなかった。

「もう疲れた・・・」ただそれだけだった。

医師の提案で入院して治療が終わったら1週間から2週間づつ、それぞれのおうちにばあちゃんを引き取って今ばあちゃんがどんな状態なのか見て欲しいと言ったが、その提案に賛成する人は一人もいなかった。医師は呆れた顔をしていた。

口は出したいが面倒は見たくない「家族」はさっさと帰った。ばあちゃんの病室にも寄らなかった。

 

私はその日から毎日病院に行った。

家に居る時ばあちゃんが居なくて変な気持ちがしたが、仕事している時「ばあちゃん大丈夫かな?」などと思わなくて済んだ。

病院にいる間はちゃんと見ててもらえると思ったから・・・。

ばあちゃんは2週間で元気になって帰ってきた。

ばあちゃんは元気になったが私の腰と足は悲鳴をあげていた。

足の痺れが取れなくなったのだ。でもばあちゃんの病気は待ってくれない。

足を引きずって仕事に行って、ばあちゃんの病気と向き合った。

私の体は限界を迎えたみたいだ。痺れが全身に回り、歩けなくなり、喋れなくなり、息苦しくなり私は倒れた。

となりのおばちゃんに見つけてもらい私は病院に運ばれた。

ばあちゃんの担当医師が私の所に来た。

「疲れが出たんだよ・・・少し休んで・・・今はおばあちゃんの事より自分の体の事を考えて・・・」

喋れない私は黙ってベットに横になるしかなかった。

色々な検査をして「ギランバレー症候群」と言う病気が浮かび上がった。

「後遺症が残るかもしれない・・・もうおばあちゃんの介護は無理だ」と医師に言われた。

私がこんなとこになったら誰がばあちゃんの面倒を見るの?と聞いたが体が痺れて動かなかった。

となりのおばちゃんがせっせと私の病院に通ってくれてばあちゃんの様子も見てくれた。

医師が「家族」に連絡した。しぶしぶ「家族」が病院のカンファレンスルームに集まった。

車いすに乗った私は責められた「誰がばーさんの面倒見るんだ!」と・・・。

医師が「お孫さんはもうおばあさまの面倒は見れません」と言ったら「この役立たず!」と言われた。だいたい予想は付いていた。

実の父からはぶん殴られた。車いすごと私は吹っ飛んだ。叔父や叔母は止めなかった。

「どうしてお前を殺さないか分かるか?兄貴や姉貴に迷惑がかかるからだ。俺一人ならとっくの昔に殺していたよ。ばーさんの面倒見ていたから大人しくしていたけど、こうなったらお前はお荷物なんだよ」と怒鳴られた。

昔からこうだ・・・自分の都合が悪くなると力に頼る人達。

医師から「家族」は強制退場させられた。

「家族」は色々私に文句を言っていたが「警察を呼びますよ」と言われたらすぐに帰った。

 

看護師から殴られた傷を手当してもらっている時に医師から「あなたは自由に生きなさい」と言われた。

それは全て放棄すると言う事だった。介護もあの「家族」とも縁を切り自由に生きると言う事。

それを受けたらもちろんばあちゃんの最後にも会えない。じいちゃんの墓参りだって行けない。

医師の言葉に反応しなかったら「このままだとあなた殺されちゃうわよ!」と言われた。

「どうして生まれて来たのかな・・・どうして癌になった時死ななかったのかな?何で今生きているのかな?どうして私の好きな人たちは次々死んじゃうのかな?どうして私をあの世に連れて行ってくれないのかな?ばあちゃんと一緒に死のうかな・・・。今なら喜んで殺されてやるのに、どうしていつも口ばかりで父は私を殺さないんだろう・・・」と言った。医師は黙っていた。看護師は泣いていた。

次の日精神科医を紹介された。精神科医はだいたい前日の事情を知っていた。

「逃げる」事を進めて来た。納得は出来ないし、ばあちゃんにも二度と会えなくなる。

ばあちゃんのアルツハイマーの進行度合いを見たらそう長くはない。

介護はもっと大変になる、今の私の体の状態だと何もできない。

「逃げる」選択肢を取った私は卑怯者になる。

「家族」なんて私の中で何にも意味を持たない言葉だった。

本当の「家族」なんてテレビの中の世界でしかなかった。

「家族」を切る事は簡単だった。ばあちゃんの事だけ気がかりだった。

医師は「おばあちゃんの面倒を誰も見なくなった時は役所、医療機関が動くことが出来る。」と言った。

それが嘘なのか本当なのか分からない。

今後仕事も出来なくなったこの体じゃばあちゃんを食べさせる事も出来ない。

それなら私と一緒にいるよりそっちの方が幸せなんじゃないか?と思った。

きっとこの体の状態を知ったらばあちゃんはどう思うんだろう・・・。

それなら何も知らせないまま消えた方がいいのか?そう思った。

「逃げます」この言葉を言う自分が悔しかった。

私はばあちゃんに電話した。何も言わずにさよならが辛かったから・・・。

電話の向こうのばあちゃんは落ち着いた状態の様だった。

「もう会えないんだ・・・これからは家族に頼ってほしい・・・役に立てなくてごめんね」と言った。

ばあちゃんは普通の状態の声で「子供3人産んでこんな事になるなんて情けないねぇ・・・あんたは幸せになりなさい。困っている人の役に立ちなさい。人に優しくしなさい。神様はちゃんと見ている・・・。悲しい事や辛い事があったら神社に行きなさい。あんたの名前は神社でつけてもらったんだ。神様はきっと助けてくれるよ・・・ばあちゃんは大丈夫だから。あんたには未来があるんだから・・・」と言った。

「ばあちゃん」と呼んだら「なんだい?」と言った。もうこのやり取りは二度と出来なくなる、そう思ったら涙が止まらなかった。

「ありがとう」と言ったら「元気でね・・・こちらこそありがとう」と言った。

 

医師は区役所と警察に連絡して私は入院中役所の人、警察の人と面会をした。

医師や看護師が「家族」の発言や暴力を見ていたのと、過去の虐待の記録もあったおかげで私の個人情報は次々とフィルターをかけられた。

病院の中からネットで車を売り払った。

カギを渡していつでも取りに行ってくれと実にあっさりしたものだった。

車いすに乗り私はひっそりと退院した。

旦那(その時は彼氏だった)に連絡した「頑張ったけど・・・ばあちゃんが居なくなるまで面倒見たかったけど・・・ダメだった・・・しばらく泊めてほしいんだけど・・・」と言った。

付き合いの長い旦那はすべての事情を把握したみたいで「よく今まで頑張ったね。うちにおいで・・・ずっと待ってたよ」と言ってくれた。

電車に乗り、バスに乗り旦那の所に行ったら旦那と旦那の友人が待っていてくれて「退院おめでとう!」と退院祝いをしてくれた。久しぶりに笑った気がした。

ばあちゃんを見捨てて逃げた卑怯者の私の事を一度も旦那は責めなかった。

「ここまで頑張ったじゃないか!」と言ってくれるが私の中では「見捨てた」と言う思いで押しつぶされそうになる。

あれから数年、私は転院してリハビリをして回復した。後遺症は残ってしまったが、それでも元気になった。

ばあちゃんのその後の事は知ることが出来ない。

もしかしたら亡くなってしまっているかもしれない。

このブログでばあちゃんの事を書く事によって何も現実は変わらないのだが、私の中で祖父母に対する思い出を形に残しておきたかった。これからも書くと思う。

文章を書いているとこんな楽しい事もあった・・・。あんな楽しい思い出もあった・・・。と元気になるからだ。

このブログを始める時、Twitterを始める時「私の事が「家族」に知れ渡ったらどうしよう」と考えたけど、「家族」はこう言ったものをやらないのと価値のなくなった私に興味はない。

常に「いらない存在」「邪魔だった存在」だった私を探したりはしない。

むしろ今頃のびのびと「家族」をしている事だろう。

私は愛される子供の条件を満たしていなかったのかもしれない、私は母親にものすごく似ているらしく父からしたら嫌な記憶の象徴みたいなものだったんだろう。

父の事を呼んだこともない位疎遠だったのだ。

じいちゃんが居なくなり、ばあちゃんと言う一本の線だけで繋がっていた存在。

じいちゃんもばあちゃんもその疎遠さを感じさせない位普通に接してくれた。

私のパソコンの中には箱根に一緒に行った時のばあちゃんの写真や美味しそうにウナギを食べている写真が残っている。

私の中のばあちゃんは変わらない。

夢に出てくるばあちゃんはいつも「お腹空いていない?ちゃんとご飯食べた?」と聞いてくる。