ゆるるん自宅警備

大人になりたくない大人のブログです

大仏先生の授業

私の学校生活最後の担任の先生がいる。先生は社会科で歴史の授業を教えていた。

みんなのおっ母って言う雰囲気の先生で結構厳しかった。

今考えたら私はかなり迷惑をかけた生徒だったと思う。

反抗さえしないが忘れ物は毎日だし、宿題を提出しなかったり、授業も真面目に受けていなかったと思う。

成績も好きな科目は頑張るが、嫌いな授業はやる気が出ず「消しゴムのカスをどこまで長く繋げられるか」と言ったオリジナルチャレンジをしたり、オリジナル小説など書いたりに没頭して全く授業を聞いていなかった。

部活の剣道だけは熱心に頑張り「段」を取ったりして何の為に学校に行っているかも分からなくなっていた。

寝坊して朝ごはんも食べず登校して隠れておにぎりを食べて見つかって怒られたことがあった。

その時「お前は剣道の精神の賜物か!!」と謎のツッコミをしておにぎりを没収され食べかけのおにぎりを捨てられた事を今でも思い出す。

おにぎりの中身はツナマヨだった。ゴミ箱の中に放り込まれたツナマヨを見ながら「次は見つからないようにしよう」と心に誓った。

私のゆるい反抗期は毎日少しづつ口から毒を吐き続け、おにぎりを没収された事を恨み、先生の事を「大仏先生」などあだ名をつけた。

あだ名の由来は先生が奈良の大仏にそっくりだったからだ。

クラスのみんながクスクスと影で「大仏先生」と呼ぶが本人を目の前にして言う強者は居なかった。

それでも出来の悪い私を見捨てることなく大仏先生は一生懸命向き合ってくれた。

「あなたは授業を聞かないんじゃない、聞けないんだ。頑張っても集中力が欠けてしまうんだ。だから一番前の席に座ればきっと授業が聞けると思う。」などとアドバイスしてくれた。

そんなに急にダメ人間が席を変わったくらいで真面目に授業を聞ける訳がない!と思っていたが、一番前の席にしてもらったら消しゴムのカスを繋げたりしなくなったし、オリジナル小説も書かなくなった。

これはイケる!!と思った矢先私は急に転校しなくてはいけなくなった。

我が家が「児童相談所案件」になってしまったのだ。

あまり詳しい事は書けないが、私は「児童虐待」で強制的に警察と児童相談所に保護をされ1か月半過ごした。もちろん学校にも行けなくなった。

児童相談所から養護施設に移動する時大仏先生が会いに来てくれて「辛い事を経験してみんなより先に大人になってしまったんだね・・・気づいてあげられなくてごめんなさい。大人の世界に首までどっぷり浸かってしまったから今は何も信じられないかもしれないけど、あなたを裏切らない人もたくさんいる。あなたが全力でぶつかって行っても受け止めてくれる人が居るって言う事を忘れないでほしい」と言われた。

大仏先生は泣いていた。私はもう大仏先生に会えなくなると言う事が寂しかった。

「もう先生に会えないの?」と言ったら「先生は待っているよ!ずっと待っているから、新しい学校に通っておうちの環境が良くなったら堂々と胸を張って家に帰りなさい。」と言って抱きしめてくれた。

大仏先生が私の為に洋服を買ってきてくれた。児童相談所の洋服は出るときに返さなくてはいけないからだ。

私は大仏先生の買ってきてくれた洋服を着て民生委員のおばさんと一緒に車に乗って養護施設に向かった。車の窓から先生に手を振ったら大仏先生は泣きながら手を振り返してくれた。

 

私は養護施設に移ってから学校に行かなくなった。転校生として注目されるのも嫌だし、どうして施設に入ったのか?と聞かれるのも嫌だった。

何もかも変わってしまった新しい環境になじめなかったのだ。

赤ちゃんから高校生のお兄ちゃん、お姉ちゃんが一緒に住んでいる不思議な環境。

コインロッカーに捨てられた子、虐待を受けた子、両親が居なくなってしまった子・・・色んな子と同じ屋根の下で暮らした。

周りの保母さん、保父さんは学校に行かない私を叱らなかった。

学校に行かない日は洗濯したり、掃除したり、赤ちゃんのおむつを替えたり、小さい子に絵本を読んだりして過ごしていた。

絵本を読んでニコニコ笑ってくれる小さい子が私の癒しだった。

「今日は学校に行ってみたら?」と言われて素直に行ってみても途中で帰って来てしまう。学校が楽しくない苦しい場所になってしまった。

 

学校に行かない私の為に保母さんや保父さんは施設で私の勉強を見てくれた。

ある一人の保父さんが私が勉強で問題が解けたので頭を撫でてくれようとしたのだが私はその手を払いのけた。

私は触れられると言う事がものすごく苦手だった。

保父さんはビックリした顔をしたがすぐに手を引っ込め何事もなかったように「よくできたな」と笑ってくれた。

その保父さんは私の事をものすごく気にしてくれた。

出来るだけ私の心を開こうとしてくれたのだ。

ある日その保父さんに「まだここの施設の人達を信じられないのか?」と聞かれた。

入って1年たっても変わらない私を見たらそう聞きたくもなるだろう。

私は素直に「大人の男の人はあまり好きではない、でも保父さんの事はそんなに怖くない」と言った。

保父さんは「いやらしい意味じゃない、でもぎゅっと抱きしめてみてもいいか?」と聞いてきた。

ビックリしたが「うん」と答えた。この人がこんなことを言うって事は理由があると思ったからだ。

保父さんがぎゅっと抱きしめくれた時、不思議と嫌な感じはしなかった。

大仏先生の時と一緒であたたかくて思わず腕の中で目を閉じてしまうような気持ち。

保父さんは「辛い時、悲しい時、嬉しい時、こうやって抱き合うと心臓と心臓がくっついて言葉が要らなくなるんだ。この気持ちを知ってほしかった。公にするとわいせつとか言われてしまうからみんなの前では出来ないけど、もし寂しくなったり辛くなったりなったりしたらいつでも言いなさい。誰も居ない所でならしてあげられる・・・親の愛情の代わりになれないかもしれないけど、ここに居る子はみんな私の子供だよ、君も私の子だ」と言ってくれた。

一歩間違えると自分の立場が危なくなるのに私に親の愛情と言うものを教えてくれた。

 

私の施設での生活は2年半、行ったり行かなかったりした私の学校生活も施設の生活と同じタイミングで終わりを迎えた。

 

私の家も落ち着いていたので家に帰る事になった。

少しだけ大人になった私はどうにもならない問題から「逃げる」事を覚えた。

じいちゃんばあちゃんも私の対応に何も言わなくなった。

「あんたが思うようにすればいい」と・・・。

じいちゃんばあちゃんからしたら何も言えなくて当然なのだが私は複雑な気持ちなので「じいちゃんとばあちゃんの面倒は見るけどその他の事は勝手にしてくれ」とだけ言った。

冷たい孫かもしれないが仕方ない。自分を守るにはこれしかない。

じいちゃんとばあちゃんは私の事を責めなかった。

 

その後私は大仏先生を思い出す時もあったが仕事もして社会人となり、成人して免許を取ったりなどあわただしく過ごして居たため大仏先生の所に電話するきっかけを失っていた。

胸を張って大仏先生に会える自分なのか?と思うと私は胸を張れなかった。

そうこうしている間に私に癌が発見されてじいちゃんが死んだ。

大好きなおじちゃんも死んだ。何を信じていいか分からなくなった。

おじちゃんの家でサンマを焼いて帰ってきた私にばあちゃんが「あんた女川でサンマ買ったの?」と聞いてきたので「そうだよ~」と気のない返事をした。

2年経ってもなかなか傷は癒えないもんだ。

ばあちゃんが「確か・・・あんたの先生の出身って女川だったと思う・・・」とボソッと言ったので「え!!嘘でしょ!!」とばあちゃんに詰め寄った。

ばあちゃんも宮城県出身なので意気投合したらしい。

私は2011年10月と2013年の10月の物凄い状態の女川、気仙沼の光景を見て来たのだ。

もしかしたら・・・と嫌な予感しかしない。

家中引っ掻き回してやっと古い連絡網を見つけた。

大仏先生の電話番号にかけたらNTTのアナウンスが流れた。

どうやら引っ越したらしい・・・嫌な予感しかしない。

NTTのアナウンスは引っ越したので御用の方はこちらの電話番号へかけてくださいと言っている。

私は間違えないように慎重に番号をメモした。

メモした番号にかけるとプルルルル・・・プルルルル・・・とコールする。

5回目のコールで「もしもし・・・」と出てくれた。

懐かしい声・・・間違ちがいなく大仏先生だ。

私は緊張と無事だった安心がごちゃごちゃになり「あのいきなりすみません・・・○○学校の時の・・・」と挨拶をした。

大仏先生は「元気だった!!久しぶり!!嬉しい!!」と喜んでくれた。

先生は女川に母親と住める家を買おうとしていて震災にあったらしい。

買おうとしていた家は全て流され今は仮設住宅に住んでいると・・・。

私は自分が癌になった事、じいちゃんが死んだ事、大好きなおじちゃんが死んだ事、そんな事を話しているうちに電話で大仏先生に話しながら泣いていた。

 

「いつも辛い時・・・側に居てあげられなくてごめんね・・・」と大仏先生も電話の向こうで泣いていた。

私は大仏先生に会いたくなった。

先生は「仮設住宅で狭いけどいつでも来なさい」と言ってくれた。

私は早速大仏先生に会いに行くことにした。

今どうしていいか分からない答えがそこにある気がしたのだ。

非常に勝手な元生徒だが昔から困らせていたんだから今更猫を被っても仕方ない。

それにいつ再発するか分からないとなったら会える時に会っておいた方がいいと思ったのだ。

またおばちゃんに電話して「ごめんおばちゃん、用事が出来たからまた行くわ!!」と言ったら「言った通りカレーライスしかないよ」といつもの答えが返ってきたからそれはそれでOKである。

泊るところも確保できた私は早速出発した。

 

大仏先生に教えてもらった住所を入れても仮設住宅だから表示されないし、震災後のナビは当てにならない。

おばちゃんちに夕方到着して予告通りカレーライスを食べて朝大仏先生の仮設住宅を探しに行った。

案の定どこだか分からない。

道行く人々に「すみませーん」と声をかけ教えてもらいながら車を進ませる。

気分はダーツの旅と言った感じだ。

多分このあたりだろう・・・と言うところで小さい子の手を引いた女の人に「すみませんこのへんに○○さんのおうちはありませんか?」と聞いたら「それはうちです」と答えが返ってきた。

話を聞くと大仏先生の妹らしい。孫と散歩している所をたまたま私が話しかけたみたいだ。

大仏先生の妹に案内され車を止めいよいよ会える!!と言うところまで来た。

でもなんて言ったらいいか分からない。どんな顔したらいいのかも分からない。

言いたい事はたくさんあるのに、気の利いた言葉が浮かばない。

「姉さーん生徒さんが来たよー」と言いながら大仏先生を呼びに行った。

緊張MAXの状態で大仏先生が中から出て来た。

大仏先生とどれくらい会っていなかったのだろう・・・それでも昔のままの笑顔で大仏先生は迎えてくれた。

大きく手を広げてくれたので私は迷わずその腕の中に飛び込んだ。

あの時保父さんから教えてもらった事・・・。

そうだ・・・こうすればいいんだ・・・。

何て言ったらいいか分からない時はこうするんだ・・・。

心臓と心臓をくっつける・・・こうすれば全てが伝わるんだ。

大仏先生は「ごめんね・・・・・・いつも辛い時側に居なくて・・・よく生きててくれたね・・・ありがとう・・・」と言って泣いていた。

私も大仏先生の腕の中で子供の様にわんわん泣いていた。

十数年間抑えていた感情がコップの水が溢れる様にとめどなく湧き出てきた。

大仏先生の妹さんや甥っ子さんも見ている中私は大仏先生の腕の中で泣き続けた。

一通り泣いて落ち着きを取り戻した私は大仏先生の家族に迎え入れられて仮設住宅の中に案内された。

狭い家に3人大仏先生、妹、母親で暮らしているらしい。

家の中に案内された時大仏先生が改まって話があると言ってきた。

「実は謝らなきゃいけない事がある・・・あなたが急に転校したのでロッカーの中にあった体操着、教科書、音楽の授業で使ったカセットテープを自宅で保管していたんだけど、ここに引っ越す時に全て処分してしまったの・・・教師の時の物は全て捨ててここに来たの・・・本当にごめんなさい」

10年以上そんなものを取っておいてくれた事に大仏先生の愛情を感じた。

「先生が居てくれただけで私は何もいらないよ。今まで取っておいてくれてありがとう・・・」とまた泣いた。

大仏先生と色んな事を話した。

大仏先生がとてもいい家をを見つけてそこを買おうとしている話を聞いた。

翌日買う予定の家と女川に行こうと言う話になった。

「また明日ね」と言ってその日はおばちゃんちに帰った。

私はおばちゃんに「今日ねー、先生とねー、ねえおばちゃん聞いてる?」などと子供の様に報告した。

おばちゃんはニコニコしながら「いがったね~(よかったねー)」と言いながら私の話を聞いてくれた。

 次の日私は迷う事なく大仏先生の仮設住宅に迎えに行った。

昨日よりオシャレをした大仏先生を助手席に乗せて女川に車を走らせた。

十数年前のあの頃の私は大仏先生を乗せて車を運転するなんて考えた事もなかった。

それだけ大仏先生も年を取ったし、私も大人になった。

お昼大仏先生と海鮮丼を食べた。

私はウニが好きなので最後に食べようと端っこに寄せていたら大仏先生が「ウニ好きなの?」と聞いてきたので「うん、好きなものは一番最後に食べるの」と言ったら「先生のも食べなさい」と母親の様な愛情をくれた。

海鮮丼を食べながら「先生はもう教師じゃないから先生って呼ぶのはやめよう」と言ってきた。

今更なんて呼べばいいか分からないので「なんて呼べばいいの?」と聞いたら「○○さんって名字で呼んで」と言った。何とも変な感じだ、それに少し寂しい気持ちもした。

 

海鮮丼を食べ終わった後、大仏先生は自分の育った女川の町を案内してくれた。

何にもなくなってしまった女川の町をここにパーマ屋さんがあったんだ・・・ここは同級生の家だった・・・など今もまだそこにあるかのように鮮明に覚えていて私は小さい頃の大仏先生が目に浮かぶような気がしてきた。

高台に行きガランとしてしまった女川の景色を眺めた。

大仏先生が海の向こうに浮かぶ島を指さして「あれは昔島流しの島だったんだよ」と教えてくれた。

大仏先生が言うには、江ノ島仙台藩の流刑の地で政治犯なとが送られたそうですが、ほとんどの人がえん罪だったと・・・

学識の高い流人のおかげで江ノ島には女川よりも早く寺子屋が開設されたらしい。

江ノ島に送られた仙台祐筆の高橋茂安は、1848年頃、井ノ上塾という寺子屋を35歳で開業した。

流人は仙台藩より日当を貰っていたみたいで、そのおかげか天保の飢饉の時も島民は30人以上も亡くなりましたが流人は3人しか命を落とさなかった・・・。

今でもその島の人はみんな頭が良いのはそのおかげかもしれないと・・・。

 

私は嬉しかった。大人になった今ここ女川の地でまた大仏先生の歴史の授業を受けることが出来た。

私は大仏先生に「先生・・・私なんであの頃先生の授業をちゃんと聞かなかったんだろうって後悔している。あんなことになるとは思っていなくてもっと先生の授業を受けれると勝手に思ってた。今またここで先生の授業を受けれて物凄い嬉しいよ!やっぱり先生は私の先生だよ!○○さんって呼ぶのすごく寂しいよ・・・。先生はずっと私の先生で居てほしい」と言った。

そしたら大仏先生は「教師じゃないのに先生なんて呼ばれるのはちょっと恥ずかしいね。でもずっとあなたの先生でいるのも面白いかもしれない。あなたが付けた大仏先生ってあだ名もいいかもね!」と言った。

私はビックリして大仏先生を見た。大仏先生はニヤッと笑った。二人で大笑いした。

バレていた・・・。大仏先生は大仏先生とあだ名がついてるのを知っていて、名付け親が私である事も見抜いていた。さすが私の大好きな大仏先生である。

大仏先生は「勉強は生きている間にいくらでもできる。義務教育がすべてではないし、大学がすべてでもない。勉強がしたいと思った時、人は教えられた事を物凄い勢いで吸収して自分の知識にする。生きると言う事は毎日が勉強・・・学校で教える事が全てじゃない、あなたの人生はこれからなんだよ。前を向きなさい・・・あなたはきっと大丈夫。困難に立ち向かえる強さがあるから・・・」と言ってくれた。

女川の絶望的だけどそこから立ち上がろうとしている景色が私を納得させた。

女川も気仙沼も今まさに立ち上がろうとしている。

転んだっていい、かっこ悪くてもいい、何度でも起き上がればいいんだ。

見ていてくれる人はちゃんとここに居る。

「先生・・・私頑張るね・・・何を頑張るかはまだ決めてないし、病気で出来ることも少なくなっちゃったけど・・・でもせめていなくなっちゃったじいちゃんやおじちゃんを心配させないようにするよ・・・。それと自分の生まれ育った環境を恨むのはもうやめるよ。何かあったらすぐ逃げる!こういう運命だったんだ仕方ないって思う事にする。」と言った。

今までの私は自分の生まれ育った環境を恨んでいたし憎んでいた。

分かり合う事が出来ない人間も世の中には居る。血の繋がりなんて関係ないのだ。
どんなに努力をしてもどんなに歩み寄っても「力」でねじ伏せられてしまうとそこで終わってしまうのだ。
物理的な「力」は人を守る事も出来るが、使い方を間違えると簡単に人を殺してしまうもの。
殺されるくらいならかっこ悪くても逃げる事の方がいい。

でも見ていてくれる人はちゃんと見ていてくれる。

探していた答えはこれだった。

大仏先生は「うん・・・それでいいよ。寂しくなったらここにおいで・・・。先生待ってるから・・・」と言って手を握ってくれた。

憎しみや悲しみが浄化されていくような気持だった。

 

帰りに大仏先生が買う予定の家を見に行った。

中古だけど立派な平屋一戸建てだった。日当たりも抜群!津波の心配もなし!

庭もあり妹さんと一緒にガーデニングなんかを楽しむ予定で一番日当たりのよい部屋にお母さんのベットを置くらしい。

「今度は仮設住宅じゃなくてここに来るんだよ」と言ってくれた。

 

最後にお友達の経営している仮設店舗で買い物がしたいと言う大仏先生を乗せてお店に向かった。

お店の人たちは大仏先生のお友達で「この子が私の教え子で大仏先生の名付け親だよ!」と紹介してくれた。

お店の人は「そっかぁ~この子なんだ~!大仏先生にいっぱい買ってもらいな!」とケラケラ笑っていた。

何とも言えない紹介の仕方だ。しかも噂になっていたらしい。何だか恥ずかしい気持ちにすらなってくる。

大仏先生はいきなり「先生は今日奮発しちゃいます!」と言ってたくさんのお土産を買ってくれた。

大仏先生の自宅に向かっている車内で「先生寂しくない?」と聞いたら「私は結婚しなかったから子供もいないけどそれでよかったんだ。弟が病気になった時も授業が終わってすぐ新幹線に乗って帰ってくることもできた・・・。今は妹の孫もいる、幸せだよ。こうして会いに来てくれる生徒もいるしね・・・」と言った。

大仏先生の生き方はカッコいいと思った。胸を張って「幸せ」と言える事はカッコいい!

 

最後に大仏先生ともう一度抱き合った。やっぱり気の利いた言葉が出なかったから・・・。

でもちゃんと伝わったみたいで「先生待ってるから・・・何かあったらいつでも電話しなさい。次は新しい家に来なさい。前を向いて自信を持って・・・」と言ってくれた。

私は泣くのを我慢して「また会いにきます」と言って車に乗った。

車の窓から見たら大仏先生は家族三人で手を振ってくれて見送ってくれた。

あの頃と違う大仏先生の涙だった。私の気持ちもあの頃と違った。もう寂しくない。

 

先生の授業は黒板の上が全てじゃない。人のためになる事を教えてくれる人が全て先生になることが出来る。

「尊敬している人は誰ですか?」と聞かれたら私は迷わず「大仏先生です」と言うだろう。

大仏先生みたいなすごい人に私はなれないけど、大仏先生みたいなカッコいい人に私はなりたい。